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いのちの観察と生命エネルギー

"いのち"の観察と科学(生命力と波動性)

いのちを観察していくと、いのちを具現化している肉体の背後に目には見えないが生命力ともいえる膨大な微弱エネルギーが存在している。これらのエネルギーは、現在の物質の科学では解明できず、量子論における2元性の1つである波動性の観点から説明される。

私たち生命体は、意識するかどうかに関わらず、この生命エネルギーに支えられている。また、移り行く環境の中で生命活動を継続していくために、無意識下で環境から与えられるいろいろなエネルギーを受け止め、自らの生命エネルギーを働かせている。

このような生命エネルギーを観測したり、活性化するのに波動機器が活用されている。

量子論の波動性と生命エネルギーの観察

気の様な目に見えない生命エネルギーの現象を、これまでの物質科学の拠り所としている客観性で解明することには無理がある。

物質をどんどん細かくしていくと、その構成要素である電子や素粒子は極微の粒子(粒子性)であると同時に波のエネルギー(波動性)を持っていることが解かってきた。今まで未解明の人間の意識や精神に関わるエネルギーを表現するのに、この波のエネルギーと関連があるのではないかと、波動という言葉が使われてきた。

量子論における素粒子の波動性が関わる領域と理解すれば、このような生命エネルギー現象をいのちが関与する広い意味での情報活動と位置付けることが出来る。

“いのち”の働きと情報活動

観測と2元性について
近代科学は物質中心の科学であり、客観性・再現性を前提としている。今、あなたが机の上にりんごを置いたとする。そのりんごのあるところには、りんごをどかさない限り他のものは存在しない。誰でもが何時でもそこにりんごがあると確認できる。これが客観性・再現性の論理なのだ。すなわち、ある1点に1つの物質が存在するということは、同じ1点に同時に他の物質が存在しないということだ。
それでは情報についても同じことがいえるだろうか。近代科学の産物としての情報化であるから、現在の情報化は当然客観性や再現性が前提となっている。確かに、テレビには指定したチャンネルの画像が映り、携帯電話には音声が流れる。しかし、テレビで1チャンネルの映像が映ったからといって、その同じ空間に1チャンネルの情報以外のものがないとはいえない。チャンネルを回せば、同じ空間で3チャンネルでも10チャンネルでも映るのだ。また、テレビで携帯電話の音声が取れないからといって、同じ空間に携帯電話の情報がないということにはならない。さらに、今の科学では未解明の気のような情報も存在している。
情報に関しては、ある1点に無限の情報が共存している。情報が確認できるのは、受け手が共鳴することによる。受け手が共鳴しなければ存在を認識できない。従い、情報については有るか無いかではなく感受できるかどうかが問題となる。感受できれば存在が確認できるが、感受できなければ存在が確認できない。情報の世界は、物質の世界が前提とする客観性や再現性とは異なる領域なのだ。
物質をどんどん細かくしていくと、その構成要素である電子や素粒子は極微の粒子(粒子性)であると同時に波のエネルギー(波動性)を持っていることが解かってきた。今まで未解明の人間の意識や精神に関わるエネルギーを表現するのに、この波のエネルギーと関連があるのではないかと、波動という言葉が使われてきた。
量子論における素粒子の波動性が関わる領域と理解すれば、このような生命エネルギー現象をいのちが関与する広い意味での情報活動と位置付けることが出来る。

いのちの3面と生命活動の観察
生命力とはいったい如何なるものだろうか。私たちの生命活動を観察してみよう。
まずは私たちの身体の中で働いている生命活動を見てみよう。確かに私たちは外部から食べ物という物質を取り入れ、この肉体を維持している。この消化吸収という作業において、ただ単に食べた物が粘土細工のように身体に付くのではなく、自分にとって必要なものを身体の中に取り入れるために、身体の中のあらゆる器官が連携作業を行っている。消化作業により、身体が吸収できる程度にまで分解される。そのうえで、身体にとって必要なものと必要でないものとが選り分けられ、必要なものが吸収されて、必要でないものは排泄される。ところで、私たちの身体で吸収する機能は腸である。必要な部分が吸収されるといったが、必要だとか必要でないとかいうのを腸が勝手に決めるのだろうか。身体全体の要求を考慮しないで腸が勝手に必要かどうかを判断して吸収したならば、身体全体が必要とするものが吸収されないで、必要でないものが取り込まれる恐れもある。腸が身体全体の要求を理解し、身体が必要とするものを吸収し、必要としないものは排泄することが望ましいのは明らかである。このためには、腸に身体が必要としているものを伝え、腸がそれに応えねばならない。ここに身体の中の機能の役割分担と機能間の連携作業の重要性がある。この連携作業を司るのが脳を中心とした神経系であり、これはまさしく身体内部の情報活動をしているのである。消化吸収作業に限らず、私たちの肉体という物質を維持していくためのあらゆる活動は、ただ単に物質を集め、配給しているのではなく、生命を維持するという目的を実現するために、身体のそれぞれの部分が役割を分担し協力し合うという情報活動をしているのだ。
次に、私たち生命体は、私たちを取り囲む環境とどのような関わりを持っているのだろうか。私たち自身は、それぞれが独立した生命体として独自の活動をしているが、それぞれが単独で存在しているのではなく、集団としてあるいは人類という種として、この地球という環境のなかで生命が生まれてから参拾数億年といわれる歴史の1コマとしての生命活動を営んでいる。私たち個人は、所属するいろいろな社会環境の中で、よりよい生活を求めて、お互いに言葉を駆使したりして、コミュニケーションを図っている。また、個人にしろ、社会にしろ、私たちの生存はこの地球という自然環境によって支えられている。この自然環境は常に一定というわけでなく、季節のような周期的なものもあれば、地震のような突然起こるものもある。いずれにせよ、さまざまな自然環境の変化にも適応していかねばならないし、適応してきたから現在がある。このように私たちは、社会環境の中でコミュニケーションを図り、自然環境に適応してきているのだが、この活動を支えているのが五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)である。五感とはまさしく私たち生命体が情報活動をしているということである。更に六感ともいわれる感受性や、気のような情報交流もある。
以上述べてきたように、私たちの生命活動とは、内においても、外に対しても情報活動をしているのである。この情報活動は、顕在意識で認識されているものはほんの一部であり、顕在意識では認識されずに、潜在意識で受け止められ、いわゆる無意識のうちに処理される領域のものの方が圧倒的に多い。特に私たちの体の内部で行われている情報活動は意識にあがる時はむしろ異常の時であり、通常は殆ど意識せずに多くの活動がなされている。
このように生命体の機能は情報活動だとするならば、情報活動の効率性や優劣が生命体としての機能発揮に重大な影響を与えることになる。生命体としての生命力や精神力とは、生命としての力あるいはエネルギーをより良く発揮させることであろうから、生命体としての情報活動が活発でかつ効率性が良い状態が望ましいということになる。

感受性と自然治癒力
私たちは同じ場所に同じように立ち、同じ風景を見ていたとしても、見ているものが全く同じという保証はない。何故ならば、私たちが見るということは対象物の映像を情報として目から受け入れ、それをあらためて脳が映像として投影しているからだ。同じ山や森を見ても、ある人はそこに憩いの場を求める人もいれば、山登りをして山を征服したいと思う人もいるだろうし、別の人は山の材木の価値を計算するかもしれない。このように同じものを見ていても、その人の感受性によって見ている内容は異なっているのだ。このような感受性とはいかなるもので、どのように形成されるのだろうか。
私たちが生きて活動をしていくということは、自らの欲求を満たすべく、常に外に向かって何らかの行動を選択していることなのだ。生きていくということ自体が生命の要求であり、私たちの身体には本能的な身体を維持する機能が備わっている、恒常性維持機能とか自然治癒力とかいわれる働きだ。そして、自らの環境の中でより良く生きていくためには、外の状況を情報として適切に受け止め、どのような選択が望ましいかを判断しなければならない。この身体の中の自然治癒力と外界の情報を適切に感受する感受性とが協力し合って、よりよい行動が選択できる。その行動選択の背後にあるものは、生命体としての価値観=主観であり、潜在的あるいは本能的なものを含め生命体の行動の原点である。
近年、情報化時代に突入したといわれるが、私たちの生命活動が貪欲に情報を求めてきた結果ともいえる。氾濫する情報を私たちはどのように処理していくのだろうか。本人が意識するか、しないかに拘わらず、本人の生命体としての価値観こそが、情報を選択し、生命活動をコントロールしているのだ。ところが、私たちの社会は、物質中心の近代科学によって客観性を追及し物質的豊かさを求めるあまり、主観的な心や精神の問題をないがしろにし、主体性を見失い精神的に自立できない現象を生み出している。特に最近の青少年による犯罪を見ると、事件を起こした子供たちの心の問題として、心の闇というような表現が使われる。確かにこのような事件を起こした子供の心に問題があるのは確かであるが、子供は社会の鏡といわれるように、子供の心を闇に追いやった社会環境を省みる必要がある。
私たちが、心身ともに健全な社会を志すならば、客観性が絶対であるという価値観の呪縛を解き放ち、健全な主観の在り方を求め、多いに論議をし、お互いにより良い人生の獲得に努めるべきである。

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